勉強を楽しくする方法94〜複眼思考〜
フレームをたくさん持ってみる。
様々な角度から物事を眺めるために、スキルや知識を身につける。
ドライな言い方をすると、道具を獲得するということだ。
たとえば、データサイエンティストのスキルを身につけて、データ処理に関する知見を培う。
そうすれば、数学や統計学をもとに考える発想が身につくだろう。
今まで、主観的に直感であらゆる物事の判断を下してきた人生だったのが、感情に流されずに考える姿勢を新たに獲得できるかもしれない。
データを集めて、客観的にどんな傾向を帯びているのかを捉え、判断を下す習慣が身につくかもしれない。
英語や中国語の発話能力が身につけば、海外旅行で現地の人から直接話を聞くことができる。
もちろん、旅行では観光名所や食べ物、自然からも現地のことをたくさん学ぶことはできる。
しかし、やはり人から直接話を聞くことができることは、学びの効果を大きく高めるのではないだろうか。
旅行の醍醐味は、現地の人との思い出だろう。
それはその瞬間、その人としか成し得ないもの。
次旅行に訪れても、観光名所や食べ物とは再会できても、その人が必ずいるとは限らない。
言葉が話せるだけで、自分が不思議に感じていることを直接聞くことができる。
自分が感じている疑問の解決こそが、本当の学びにつながるのではないだろうか。
それを現地の人の声で解決できるなんて素敵なことではないか。
旅行に行く理由は、大抵スリリングでエキサイティングな体験を期待していくことがほとんどだ。
すなわち、学びだ。
現地に足を踏み入れた瞬間から始まる、日本とは何もかも違う圧倒的な学びを求めているのだ。
そして、外国語の習得は情報収集能力を飛躍的に高める。
海外のニュースやネット記事、新聞を読むことができれば、情報の質や量を格段に上げることができるはずだ。
インプットできる情報によって、そこからアウトプットできる成果物も違ってくる。
このように、データサーエンティストにしろ、外国語の習得にしろ、そのスキルを獲得することで当然、自分にできることが違ってくる。
そのスキルを活用して、物事に取り組み、そこから自分なりに考えていくことができるのだ。
改めて突き放して考えると、知識やスキルというものは、ただの道具にすぎない。
しかし、その道具を使って自分が得られる感性や気付きが人生を豊かにしていくのではないだろうか。
その道具はできるだけ、違う種類のものを多く持っていた方がいい。
様々な道具を活用して、物事を観察することができるからだ。
たとえば、歴史に詳しい人が森の中を散歩していたとしよう。
小川にかかる橋や湧水が湧いている場所には名前が付けられていたりする。
その名前の由緒が古代の神々に関連していたり、中世の荘園制と絡んでいたりすることがある。
その時点で、その人の歴史的なフレームが生き生きと働きだす。
その人はきっとこう思うだろう。
「私は歴史を学んできたからこそ、今こうやって立ち止まってこの歴史的な由緒を味わうことができている。歴史を学んできて良かった」と。
「ちょっと得したな」とも感じるだろう。
そして、その後しばらく植物学を集中的に学び、植物に関していろんな知識を獲得したとしよう。
そうすると、同じように散歩に出かけた時に、散歩が全く捗らなくなるかもしれない。
足元に咲いている「この雑草は何という植物だろうか?」から始まるからだ。
その後も、「こんな場所に〇〇が咲いていたとは、全く気がつかなかった。」
そして、勉強してきたことで、やはり散歩一つとっても違ってくることを実感するのだ。
知っていると知らないとでは大違い、学びが格段に高まるのである。
この例で言えば、歴史と植物学という異なる分野の知見が役に立った。
それによって、何気ない日常生活の一コマを学びの場へと変えることができたのである。
さらに、芸術や音楽などのスキルを獲得すれば、鳥の鳴き声や風のそよぎからインスピレーションを得ることだってあり得るだろう。
このように、物事を違う角度から捉えていく複眼思考に、スキル獲得は大きく寄与する。
たかが道具、されど道具なのだ。
道具は道具でしかないのだけれど、それを活用することで自分の学びを深めることができる。
そこから得た気づきは他の誰かの学びになるかもしれない。
道具の獲得を目指すのは、向上心のあらわれだ。
そして、それはやがて毎日の生活の中で実を結ぶだろう。