#勉強を楽しくする方法92〜自分自身の成長〜

自分自身の人間としての成長を知るためには、自分自身で自分を評価するということが重要となる。


評価というのは、客観的基準をもとに他者から得るものだと思われがちだ。
確かにその側面はある。
自己評価というものは、自己の狭い視野から行われる可能性があり、その精度も保証されていない。
他社が求める基準を満たしていないことも大いにあり得る。
悪く言えば、自己満足で終わる可能性があるのだ。


しかし、私はこう思う。
客観的基準で捉えきれない評価項目がある場合はどうしたら良いのか?
そして、決して他者から重視されるような評価項目ではないのだが、自分が特別にこだわっている資質や能力を獲得したいという事情があり、それが達成できたかを測るための項目が必要である時、どうしたら良いのか。
その場合、自分独自の評価項目をこしらえて、その達成度を最終的に見ても良いのではないだろうか。
誤解を恐れずに言えば、本当の意味での評価というものは、自分が下すものであり、自分の納得の上にあるものではないだろうか。


そして、本当の学びとは、自分の課題や不足点を発見して、その解決に継続的に取り組み、達成していく作業なのではないだろうか。


私は究極の学びは、課題を自分で探し、自分で解決していくことなのではないかと、思っている。
事実、子どもから大人にかけてそんな学びのスタイルが求められているような気がする。


高校や大学、大学院と進むに連れて、自学自習の感覚が高まっていく。
高校では、教員が生徒に「教える」という感覚が強いだろう。
大学になると、自分で課題意識を持って、教員から助けてもらいながら研究に取り組む。
しかし、その成熟度は発展の余地をまだまだ残す場合が多い。


大学院ともなると、半ば学生と教員の関係は互いに学び合うパートナーといった感覚さえ芽生える。
大学院においては、教員ですら力のある学生から学んだり、刺激を受けたりしてリターンを期待しているかもしれない。
あるいは、学生と協力して学校全体として、社会や地域に何かしら貢献活動をできるきっかけはないかと模索することもあるだろう。
大学院生ともなればある程度の戦力として、ともに活動できるという判断がそこにはある。


もちろん、これは程度の問題であり、高校でも大学でもこの関係性は存在するだろう。


しかし、ここで大切なのは人の学びとはその段階が進むにつれて、人から与えられるものではなく、自分で自分に与えていくものになっていくということだ。


そして、逆に言うと学校を利用して自分は自分に何を与えたいのかを理解しているか、が問われているということでもある。

高校までは学校が受験に必要な学力を自分に与えてくることを期待する。
少なくても、今まではそんな傾向が強かった。
自分が欲しいものを学校が効率的に与えてくれるのかどうか、が焦点だった。
しかし、それは学びの深まった姿ではないのかもしれない。


大切なのは、「自分」が何を欲しいのか、という部分なのだ。
あなたが欲しいスキルや能力があるのならば、それは自分で取りに行った方が得られる可能性は高くなる。
棚ぼた式に降って来るという可能性の方が低い。


学校は使い倒す存在であって、与えてくれるのを待っておく受け身の場所である限り、得られるメリットは少なくなる。
学校から一つでも多くもぎ取ろうとする学生は、すべてを主体的に決断し、行動していく。
それがために、教員の立場としても教えることばかりに手をかけずにすみ、その学生をより成長させようと思うならば、より実践的でハイレベルなことに取り組ませるべきだと判断するのだ。

つまりは、自分が取り組んでいる研究を一緒に考えさせてみてはどうだろうと、考えるに至る。
この学生にはそれくらいの力量があるとの「評価」があるからだろう。


つまり、上意下達式にトップダウンで要求される学力に対して、学生はなかなかモチベーションを上げられないということだ。


たとえば、国公立大学に合格するためには大抵の場合、国語・英語・数学・理科・社会で高得点を取るように求められる。
しかし、それを本人が本音で望んでいるとは限らない。
社会的・世間的な要請から、本人はとりあえずそれに取り組み、こなしはするだろう。
得点という形で客観的には成長を感じることができるかもしれない。
ただし、それは他者基準における成長であり、自分が求めている成長とは違っているかもしれない。
他者の要求に応えることは大切なのだけれども、一方で自分を振り返って気づく問題点や改善点はどうなるのか。
自分の欲求をおろそかにして、本当に幸せな人生を送ることができるのだろうか。
自分の尖った欲求が、熱く煮えたぎった欲求がなければ、アントレプレナーや事業家は生まれてこないだろう。


世間や社会から求められるニーズばかりではなく、社会情勢を照らした上で自分がやりたいことがあるのに、その力量が不足していることを痛感することがある。


それは確かに主観的なこともあるけども、モチベーションを核とする、自分にとって本当に必要で大切な課題であるかもしれない。


教育の世界ではポートフォリオ評価というものが最近、取り入れられるようになった。

これは、子どもが書いた作文やレポートなどの成果物をファイルで保存して評価し、次の課題を与えていくという評価方法である。

 

私は、この評価に関して初めは、懐疑的であった。
これがテストの得点や学力の増加にどんな寄与をするというんだ?


自分がインプットして、それについてアウトプットしたものを評価する。
それは、極端に言えば現地にあるものを、一切合切持って帰って眺めてみるといった感じだろうか。
そこには、「あるがまま」があるだろう。
そして、自分が吐き出したあらゆる情報を、とりあえず記録して、その現物から色々考えてみると、そこには、良いものも悪いものも見えてくる。
それがまさに、人間だ。
それがまさに、自己である。
欠点や長所が必ず存在する。
改善点と言ってもいい。


確かに、玉石混交の対象物を評価すると、客観的な物差しでは真っ直ぐに測れないかもしれない。
しかし、本人のリアルな現状が露呈され、それを見た本人は何を思うかが重要だ。


「俺って、文章力ないなあ」とか「私は意外と、絵が描けるんだ」とか気付きが得られるだろう。
たとえそれが得点化されなくても、自分で実感することで、「自分に欠けているスキル」を習得したいと、心底思うかもしれない。


そうやって、自己と向き合って生まれる学びは、絶対的な強さを持つと思うのである。


これが自分自身の成長をもたらす学びではないかと思うのだ。