勉強を楽しくする方法83〜変革意識〜

ものの本を読むと、人生100年時代の到来とともに常識や倫理の変更がこれから起こって来るという。


当然、それに応じて自分も変化が必要になる。
現状維持したいなら、変化せよ。
環境が変化するのであれば、自分も変化しなければ現状維持はできない。


移行期間といったものもキャリアの内だと考える風潮が出てくるのかもしれない。

ここで言う移行期間とは、たとえば転職など次のステップに進むための準備期間のことである。


今までも自己研鑽をしていた人はいただろう。
趣味や娯楽も自己研鑽なのかもしれないが、私が言っている自己研鑽とは特に資格取得や勉強などに日々時間を作って取り組み、週末にまとまった時間を取るなどというハードな自己研鑽のことである。


ある意味、仕事と同時並行で自己研鑽を走らせるという行為は、確固たるタイムマネージメントのスキルが要求される。


これまでは、それを自分で管理して、そういう環境とか待遇を求めるのは特別だという雰囲気があった。
ともすると、KYといった感じさえあっただろう。

たとえば、「2年間大学院に通いたい」であるとか、「半年間、海外留学したい」などと組織に研修を要望しようものなら「お前、何言ってるの?」という反応をされても珍しくはない。


むしろ当然、といった態度を組織はとるだろうし、組織内の人に話したとしても同様の結果に終わるかもしれない。


研修期間を与えるだけならともかく、給料や学費を組織が保証するなんてことは、まあ無い。


いても、そういうチャンスに恵まれている人はごくわずかだし、それを実施する組織自体も限られている。


しかし、これは人生を良きものにしたい個人にとっても、できるだけ収益をあげたい企業にとっても「長期的」には損失では無いだろうか。

 

資産という観点で見れば、お金やマイホームなどの有形資産のみが価値を持っているわけでは無いことは明らかだ。


『LIFE SHIFT—100年時代の人生戦略ー』にもあるように、資格・情報・知識・スキルといった目に見えない無形資産はこの上ない価値を持つ。


特に、一つの企業の将来的な存続保障がない現代では、個人がキャリアをチェンジする可能性は高い。


そういった事態に直面したときに、一定期間研修する、いうなれば「修行時代」に突入することはあって然るべきではないだろうか?


これからの変化が連続する時代にこそ、「修行時代があって当然」という風潮こそ求められるべきだと思う。


次のステージに進みたいと考えている場合も同様だ。


過去の自分と同じスキルや知識のレベルでは、次のステージで活動していくことは難しい。


スキルアップを図る必要性がある。

 

そういう個人が増えてきて、しかも組織にその恩恵をもたらすのであれば、組織はそういう個人の待遇を保障してあげるべきではないだろうか。


もちろん時間もお金も取られるだろう。
しかし、将来に投資するということは時間もお金もかけるということではないだろうか。
それによって、将来的に大きなリターンを期待することができるのだから。

 

まず、個人が変化ありきで生きることになる前提で、どこかで「修行時代」があると考え、世間でそれが当たり前という空気が生まれてくれば、組織も変わらざるを得ない。


自分が「こうなったらいいのに・・・」と組織や世間の風潮に対して漠然と思うことは、個人の中に留めておけばいいというわけではないと思う。

 

自分はなぜ、そう考えるのか?
たとえば、自分は人生において「修行時代」は必要だと考えるのに、なぜ世間ではそうなっていないのか。
それを真剣に考えてみる。

 

「ま、そういうもんか」と世間が正しいという風に終わらせるのではなく、「修行時代」が必要だという方向で考えを進めてみる。


徹底的に今ある常識と格闘してみる。

 

そして、なぜ「修行時代」が必要だと自分は考えたのかを問い直すのだ。


すると、決して自分が行き当たりばったりで行き着いた結論ではないことに気づく。


そう思わせているのは、「未来の社会」なのだから。

 

未来社会の片鱗を現代社会は内包しているのだ。

たとえば、AIやビッグデータの時代到来が叫ばれて久しいが、それは今現在すでに私たちの生活の中に徐々に顔を覗かせてきているのではあるまいか。


メルカリやFacebookYouTubeなど便利なアプリが登場して、販売も音楽も芸術も情報も民主化が果たされつつあり、アマチュアが自由に表現し、活動できる時代になりつつある。


未来の萌芽を私たちは現代に見出す。


そういう衝撃やパンチを受けて、では働き方も「修行時代はあった方がいいし、これからの時代それは大前提になる」と思うに至るのだ。

 

つまり、「こうあったら良いのに」という考えは自分勝手な空想ではない。
世間を見て、未来を垣間見て、世間が自分にそう思わせているということであり、自分がそれを意識に上げてきた結果の疑問なのである。


そして、現状がどうであろうと、そのあるべき理想を求めてはいけない、なんてことはない。

 

むしろ、求めないと獲得できないし、これからの時代それが必要だということならば、周囲の似たような考えの人と思いを共有したらいい。


もし周囲にそんな人がいなくても、それこそ今の時代、インターネット空間でいくらでも似たようなことを考えている人はいる。


そんな人たちからは「よくぞ、言ってくれた!!」と称賛されるかもしれない。


私たちが「こうあったらいいのに」という考えを持った時、それは人生を豊かにしたいという願望が根本にきっとある。


そして、内心ではいつかこの想いは実現するはずだと信じている。


ただし、せっかく出てきたそのアイデアを世間がいずれ何とかしてくれるだろうと期待だけで終わるほど、この世の中は捨てたものではないだろう。

 

自分から求めていくことで、案外みんなも同じことを考えているのだけれど、実際問題その人たちも自分と同様に「一人で言ったところで始まらない」と考えていたりするのだ。

 

現実に出会えない距離でも、現在では様々なコミュニティで思いを共有することができる。


特に、現況のような時代が読めない状況にあって、「こうあったら良いのに」は決して夢物語ではない。


先がどう変わるのかなんて、今確かなことが言える人はどこにもいないのだから。