勉強を楽しくする方法81〜時間をかける〜
命あっての物種と言います。
ことと次第にはよりますが、約束の時間に遅れるよりも、安全に目的地に着くことの方が大切なことです。
命を落とすよりも、優先されることはないでしょう。
交通事故を起こさないために、どうすれば良いか。
それは安全に注意しながら運転することだと思います。
そうは言っても、時間に制限されることも世の中にはいっぱいある。
仕事上の待ち合わせ時間に間に合うためには、少々の安全への犠牲は仕方ないと考えることがあります。
まさか、本当に命を落とすわけではないのだから。
時間というものはできれば無駄にしたくないもの。
まさかの万が一がまさか、今回に限って起きないだろう。
だから、万が一が起きない程度で無理して、時間を使っていく。
時間というものは効率的に使いたい。
時間は無駄なく使いたいし、無駄にしたくない。
人間にはそんな思いがあるみたいです。
しかし、そんな時間を犠牲にしてでも会得したいものがあれば、それは武器になると思います。
時間がかかっても、このスキルが欲しい。
このタイトルを獲りたい。
そのために、どんな犠牲も厭わない。
そんな人間の覚悟というものは、古今東西を問わず輝いて見えるものです。
効率的に時間を使って、目標を達成するのもカッコイイですが、どんな時間や労力も厭わず努力して、目標を達成するのもカッコよくないでしょうか。
忙しいなりに時間を割いているのだから、効率的なだけでも十分に努力しています。
しかし、本気でやる人は全部やります。
効率を無視してもやる時があります。
やれることを全部やってしまいます。
「こうやった方が効率的かな?」と悩む前に、とりあえず試してみて答えを出していく。
効率的なことしかやらないのではなく、効率的なこともそうでないことも全部やる姿勢が結果を連れてくることがあります。
対象への思い入れは如実に結果を左右します。
「そこそこでいいや」という思いで取り組むと、そこそこにしかならないでしょう。
たとえば、英語を読んで理解できればいいという思いでやれば、そのレベルに留まります。
聞いて話して、書けるようになりたいと思うのならば、それはそれで大変なトレーニングを伴うでしょう。
英語を聞いて、話して、書こうと思えば尋常ならざる努力をする必要があります。
「そこまでやるか」と言われる努力を、です。
そこまでやる人がそのスキルを会得するわけですが、それはその人が効率を無視してでもやる姿勢を持っているから可能なのだと思います。
本当に効率的かどうかなんてことは、散々やってみて初めてわかることだと思います。
特に、簡単には到達できない頂きであればあるほど、その傾向は強まるでしょう。
効率なんて、言ってられない。
とりあえず、全部やる。
とりあえず、全部試す。
この捨身の姿勢というか、何を犠牲にしても、とりあえず達成するという姿勢こそが結果を出すオーソドックスな方法なのではないかと思うほどです。
これが基本。
これが大前提。
どんな世界の大前提なんだと思われても、意外と結果を出す人はここまでやっていたりする。
もちろん、命を落とすというところまでは行かなくても、時間や効率性の犠牲を厭わない。
一見、効率重視の人のように見えても、過去にはさまざまな試行錯誤を積んでいたりする。
全て経験してから、本当の効率が体得できるということでしょう。
時間こそが人生で最大限に貴重な資源ではないでしょうか。
本気で何かを成し遂げないと思う人は、時間の確保にこそ、細心の注意を払うはずです。
その時間を多くかけてでも、何としても手に入れたい。
どれだけ時間がかかってもいいから、どうにかしてつかみ取る。
そういうある種の執念が人間に与える力が発揮される時、オーラとか迫力とか輝きとか、が見えてくるように思います。
そして、運命を変えたりするのです。
僕はよく思うのですが、たとえばテニスの試合を見ていて、それがプロの試合でなくても高校生や小学生の試合でも、アマチュアの試合でも見て良かったと思える試合が時々あります。
それはお互いの執念や気迫がぶつかって、火花が飛ぶような試合を見た時です。
もちろん、技量はプロには劣ります。
しかし、そんなことはどっちだっていいんです。
そんなことより、その試合が帯びるオーラが周囲の人間をみんな巻き込んで行ってしまう。
目を離さずにはいられない。
そんな試合を毎回繰り広げる人が、皆さんの周囲にいないでしょうか。
勝っても負けても爪痕を残す人が。
そういう人の努力は大抵、犠牲を厭わず、狂気を帯びていると思います。
効率的な社会ではありますが、時に効率を無視して何かをやり遂げようとする人間の姿勢こそが最も効率的だと思うことがあるのです。
そして、全部やっている時の必死さが人生を心底楽しむ方法なのだと悟ったりするのです。