勉強を楽しくする方法75〜活用を前提に考える〜

理屈ではなく、活用を前提に勉強することに勉強の意味を見出す人もいる。
逆に、それ以外の目的があるのかと思う人もいるだろう。


そういう人にとって、勉強はアウトプットして、人の役に立てることができて価値を感じるのかもしれない。
もしかしたら、勉強が楽しいというのは全く的外れであり、求めてさえいないかもしれない。


活用を前提に勉強していく時、回数をこなすという視点が大切になってくるだろう。
そして、1回の時間はできるだけ短くして、スピーディに捌き、スタンスとしてはとにかく回数をこなすことを意識する。


途中の理屈が難解であろうと、繰り返すうちに分かってくるだろうという発想で進めていく。


勉強において情報や知識を獲得すると割り切って、理屈はともかく、とりあえず頭に入れていくという方法をとると、大量に情報を処理することを重視する発想となる。

 

そして、そのような手法でインプットした情報は機械的にいつでも短時間で取り出してくることができる。


これは、その知識を学びたいという人にとってありがたいことだ。
普通の人は、初めからマニアックで深い知識は求めていない。

 

とりあえずの一般論を知ることができたらそれでいい。

そういう人のニーズを満たすのは、活用を前提に勉強してきた人の知識だろう。


勉強を楽しみ、純粋に知ることが楽しい人の知識は普通の人にとってマニアックに映るかもしれない。

 

知る喜びや学ぶ楽しみは過程にあるのではなく、強いていうならば習得した後に得られるものであり、あるいは人の役に立った時に実感されるものだと考えているかもしれない。

 

これは楽しむ発想というよりは、活用する発想の勉強だと思う。


楽しむ発想の勉強は目の前のことを一つずつ自分が納得するまで突き詰めたり、考え続けることを重視する。


それはそれで、深い知見が得られるが、時間もかかる。
そして、かなり細かい深い内容を学んでいるために、いざ使うという時に取り出してきにくいという側面もあるかもしれない。


専門の人にとっては新しい見方の提供になるかもしれないが・・・


つまり、ゆっくり勉強することは価値のあることだ。
その人なりの見方が社会に新しい見方を提供するからだ。
そして、純粋に知的好奇心を満たし、過程そのものを楽しみ、世界の広がりに驚いたり、感動することもあるだろう。

その人の思考に新しい世界の枠組みをもたらし、その人の鋭い見方が社会に革新を起こすことがあるかもしれない。

言うなれば、楽しむ勉強は主観的であり、活用する勉強は客観的であるということもできる。


活用する勉強はスピードを持って進み、習得した知識は客観的ですぐに取り出してこれるかもしれない。

楽しさに重きを置いた勉強は主観的であり、その内容が偏っていたり、深過ぎたりするため、すぐに承認を得ることは難しいが深さや広がりを持った勉強だ。

これはこれで、議論に弾力性を持たせることができるだろう。

あくまでも、大別に過ぎないが、これらの勉強法を区別して、学ぶということについて考えていくことができる。


そして、人がやっている勉強に対してもどちらに該当し、どう接していけばいいのかを知る手がかりにもなるだろう。